長い縄文時代のあと、弥生時代を迎えた。縄文式土器に比べると、複雑なデザインや土器表面の紋様はなくなり、すっきりした実用的な土器が使われるようになった。
弥生時代は、紀元前3世紀から3世紀ごろまで約600年間続いた。弥生時代は、稲作農耕の開始と金属器の使用という2つの大きな特色ある文化を生んだ。これらの文化は、渡来人による大陸文化の伝来といわれる。
郷土糸島は、地理的に中国大陸・朝鮮半島とは一衣帯水の距離にある。糸島の先人たちは、比較的早い時期から、この新しい文化に接し、それを受け入れたのであろう。糸島では大陸・朝鮮からの渡来人もしくは渡来系集団とかかわりをもった遺跡・遺構を多く見い出すことができる。その一つに支石墓がある。
支石墓(ドルメン)は、朝鮮半島に多く見られる古代墓制の一つで、重さ1〜2トンほどの巨石を、人の頭ほどの石で支え、その下に死者を葬るという構造の墓である。この特異な形式の墓は、わが国では弥生時代前期ごろからのもので、北西部九州沿岸一帯に多く見られる。
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志登支石墓群(国指定史跡)
志登支石墓群は、糸島平野のほぼ中央、古代糸島水道跡の低地の中でも、比較的小高いところの標高5〜6メートルの沖積台地にある。周辺の水田面よりおよそ1メートル内外高い場所に10基の支石墓が、1〜3メートルの間隔を置いて配列されている。
昭和28年(1953)福岡県文化財保護委員会によって、支石墓四基、甕棺八基が発掘調査された。発掘調査の結果、朝鮮半島南部に多い基盤形支石墓であることがわかった。
磨製石鏃支石墓は1〜3個の支石に、径1.5〜2メートル前後、厚さ50センチほどの平たい石や亀甲状の大石が支石墓の上下となっている。下部構造は魂石によって長方形の石かこいをしたものと、浅い土壙をもつものであった。
副葬品として、黒曜石製石鏃六、朝鮮製と判断される磨製石鏃四が出土した。上石の巨石は玄武岩と花崗岩が使用されている。可也山から運んだのではないかとされている。
甕棺は単棺・合口甕棺、坏や浅鉢を蓋としたものであったが、土器の形成から弥生時代前期〜中期のものと比定されている。
伊都国
糸島が古代史の中で最もクローズアップされたのは、弥生時代である。三世紀に書かれた中国の正史「『魏志』倭人伝」に見える伊都国の中心地は、前原に比定されている。「『魏志』倭人伝」には、伊都国について次のように記載してある。
(末盧国より)「東南陸行五百里にして、伊都国に到る。官を爾支(にき)といい、副を泄漠觚(せこま)という。千余戸有り。世々、王あるも皆女王国に属す。郡使往来するに常に駐る所なり」(中略)
「女王国より以北には特に一大率を置き、諸国を検察せしむ。諸国これを畏たんす。常に伊都国に治す。・・・」
「『魏志』倭人伝」による伊都国の要点は、
代々王がいたこと
魏王朝の代理として郡使が常駐していたこと
一大率という執政官が伊都国に派遣されていたこと
在のところ、王宮や郡使が常駐した所、一大率政務をとったところはわからない。しかし、伊都国王の王墓と認定してよい遺跡が怡土校区、およびその周辺に集中している。三雲南小路遺跡・井原鑓溝遺跡・曽根丘陵にある平原遺跡等がそれである。
王墓と判断されるのは、遺跡から出土した副葬品に三種神器をともなっていることからいえる。三種神器は支配者としての権力のシンボルであった。
侮O雲南小路遺跡
この遺跡は江戸時代の黒田藩の国学者、青柳種信によって確認された。文政六年(1823)のことである。それによると、前漢鏡三五面、有銅剣一・銅矛二・銅戈一、ガラス製璧、勾玉、管玉等貴重な副葬品が出土しており、まさに伊都国王の墓と言ってよいでしょう。
文政5年、南小路で発見され、出土した遺物の多くは散逸して、現存するのは、国指定の重要文化財となっている内行花文清白鏡一面と、有柄中細銅剣一本だけである。
青柳種信の記録によって、昭和50年(1975)福岡県が甕棺出土遺構の確認をおこなった。その結果、前述した、遺物の破片が多数発見され、文政5年に発見された残片であることが実証された。
2号甕棺
更に、上記甕棺のすぐ西北部から、別個の合わせ口甕棺が出土した。前述のものを一号甕棺、新たなものを二号甕棺とした。二号棺は、上下の甕を合わせると、長さ2.5メートルもある特大なもので、副葬品として前漢鏡二二面、ヒスイ製勾玉一個、ガラス製勾玉十二個、ガラス製のペンダント一個、朱多量が出土した。
二号甕棺からは、武器の出土がなかったことから、女王墓と見なされ、三雲南小路には、王と妃が葬られたとされている。
井原鑓溝遺跡
青柳種信は、『柳園古器略考』の中で、天明年間(1780〜1788)に、三雲南小路より約100メートル南の水田から、王墓と比定される甕棺の発見があったと記録している。
記録によると、二一面の青銅鏡・大小三個の巴形銅器等の出土があったとある。県教育委員会が、再調査をおこなったが、見つからなかった。今後周辺の再調査の時に出現するかもしれない。この遺跡は一世紀中頃の王墓と考えられている。
平原遺跡(日本最大の銅鏡出土)
内行花文鏡
平原歴史公園
三雲遺跡群の西側に、細長く南北に走る曽根の低丘陵があり、昭和40年(1965)に土地所有者の井出信英氏によって発見された。
調査の結果、18×14メートルの長方形の周溝墓で、その中央の4.5×3.6メートルの墓壙に、長さ約3メートルの割竹形木棺の痕跡があった。棺内から勾玉・管玉・小玉・メノウ製管玉・コハク製丸玉多量が、棺外から素環頭大刀、破砕した銅鏡片多数が発見された。
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